『虎に翼』尊属殺人めぐる歴史背景――「近親相姦」は男性にとって最後の「慰安」という考え

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歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が今期のNHK朝のテレビ小説『虎に翼』を史実的に解説します。
目次
「年少者よりも年長者を、女性より男性のことを尊重すべき」
兄弟姉妹の交わりは近親相姦とは考えられていなかった?
日本に残る「近親相姦」は男性にとって最後の「慰安」という考え
西洋史における、「ロトの娘たち」という驚くべき逸話

「年少者よりも年長者を、女性より男性のことを尊重すべき」
 最終回を目前としながらも、まったく守りの姿勢には入らない朝ドラ『虎に翼』。多くの視聴者にとって「原爆裁判」以上に衝撃的だったと思われるのが、斧ケ岳美位子(石橋菜津美さん)が犯した「尊属殺人」についての描写だったと思われます。
 美位子は長年、実の父親から性関係を強要されていましたが、母親は暴力的な父親を恐れて逃げ出しており、娘の苦境を知りながらも助けてはくれませんでした。ついに美位子は就寝中の父親を殺害し、尊属殺人の罪に問われた……というのがドラマの筋書きです。
 1995年5月31日まで、日本の刑法・第200条には、自分もしくは配偶者の直系尊属――つまり両親や祖父母を殺害した場合、「死刑または無期懲役」とする規定がありました。
 ちなみに両親や祖父母以外を殺してしまった場合でも「死刑」や「無期懲役」になる可能性はありますが、「5年以上の懲役」など有期刑の判決を得られる場合もあります。両親や祖父母を殺したときの罪のほうが、あきらかに重くなるよう区別されていたのですね。
 その背景にあったのは日本人の行動原理の根幹となっていた儒教的道徳で、年少者よりも年長者を、女性より男性のことを尊重すべきという独特の価値観がありました。
 儒教的道徳は、良くも悪くも日本の秩序維持に貢献してきたことから、尊属殺人というだけで背景は考慮せず、犯人には重罪を課すべき、という硬直した姿勢は、戦後に憲法や多くの法律が改正された後も持続していたのです。
古代日本、兄弟姉妹の交わりは近親相姦とは考えられていなかった?
 しかし、本当にそれでよいのか……という疑問が生まれ、日本の刑法・第200条改正のきっかけのひとつとなったのが、68年の「栃木実父殺し事件」でした。
 舞台となったのは栃木県の県民住宅で、ドラマの美位子による父親殺害事件のモデルとなった事件でもありますが、すでにサイゾーウーマンには神林広恵さんによる記事(15年にわたる実父の強姦が黙殺された「栃木実父殺し」から現在――社会に排除される女性と子ども)がありますから、筆者は事件の詳細ではなく、その歴史的背景や、考察されうる内容についてお話させていただきます。
 同記事の中には、思春期から15年もの間、父親の性と暴力のはけ口とされた実の娘に対し、司法関係者から「(2人の関係は)大昔なら当たり前」という、信じがたい発言がなされていたと紹介されており(筑摩書房 『尊属殺人罪が消えた日』より)、衝撃を受けた読者も多いのではないでしょうか。
 古代日本でもすでに近親相姦は「罪」として規定されていました。その中で、近親相姦は神道における「国津罪(くにつつみ)」のひとつとして、子殺しや獣姦などと並んでタブー視されています。具体的には「己が母を犯す罪、己が子を犯す罪、母と子を犯す罪」が挙げられているのですが、当時からすでに近親相姦が行われていたことを示唆しているわけですね。
 しかし、兄弟姉妹で交わる罪の記述がないのは、古代日本では母親が異なる異母兄弟姉妹の関係は近親相姦とは考えられていなかったという事実も反映されているのでしょう。
 聖徳太子こと厩戸皇子も、異母兄妹の結婚で生まれた子です。太子の父は欽明天皇・第四皇子の用明天皇で、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)も欽明天皇・第三皇女なのでした。ただ、二人は母親が異なる異母兄妹ですから、当時の感覚では「近親結婚ではない」のです。
 平安時代くらいになると、さすがに兄弟姉妹の結婚は異母兄弟姉妹でも「アウト」になりましたが、叔母と甥、叔父と姪の結婚などはかなり長い期間「セーフ」の扱いでした。しかしそれも明治時代には、法的には禁止となっています(ただし現在でも内縁関係であれば黙認)。
 つまり時代が下り、文明が進むにつれ、近親相姦はその適応範囲を拡大し、広く忌避されていったといえるのですが、何らかの理由で、社会から切り離された家庭の中でこそ近親相姦は発生しやすい現実に変化はなかったようです。
日本に残る「近親相姦」は男性にとって最後の「慰安」という考え
 明治時代の「文豪」で、現在でも国語の教科書にその詩歌が掲載されている島崎藤村も、妻を貧困で失った後、手伝いにきていた実兄の娘――つまり姪のひとりに手をつけ、子どもを産ませた事件が大スキャンダルとなりました。
 68年の「栃木実父殺し事件」の公判の中で、娘を犯した父親を弁護する司法関係者が「(2人の関係は)大昔なら当たり前」と発言したり、たしかに社会的に孤立し、つらい境遇にある娘が、父親から逃れようとして別の男性と関係したことを非難されたことについては、「近親相姦」が社会的に孤立した男性にとって最後に許された「慰安」として認められるべきという考えが、20世紀半ばの日本にははっきりと残っていたからなのでしょうね。
 日本では、さまざまな理由から近親相姦はそれほどタブー視されてこなかったという説もあります。
 道徳上の理由で、女性との正式な結婚が長らく許されていなかった日本の仏教関係者にも、タブーであると知りながら実の娘を妻にした順源法師という人物がおり、彼について記した『宝物集(ほうぶつしゅう)』(鎌倉時代中期・12世紀末成立)という書物があるのですね。
 娘を妻にしてしまう近親相姦の罪を犯し続けた順源法師ですが、死の際には彼の信仰心ゆえにその罪は帳消しにされ、毘沙門天に迎えられて極楽にいけたそうです。
 同書には、母親と交わった下野国の明達律師という人物も「名僧」の一人として描かれています。母親に会うために比叡山を下った明達は、我が子に会うために比叡山に上ってきた母親と宿屋で出会い、お互い誰かに気づかず、セックスしてしまったというのです。
 『宝物集』より少し後――つまり鎌倉時代後期に完成したと考えられる親鸞の『歎異抄』には「悪人でさえ往生して浄土に行けのだから、善人はもっと簡単に往生できる」という思想が披露されており、おそらく『宝物集』の近親相姦の逸話も、タブーを犯してでも、信仰心さえあれば往生できるという思想を伝えたいだけなのかもしれません。
 それにしてもやはり宗教関係者という、世間から孤立しがちな存在のパートナーが実の娘や母親になっている点には注目といえるでしょうが……。
西洋史における、「ロトの娘たち」という驚くべき逸話
 社会からの孤立が近親相姦の温床になるのは、西洋史でも同様のようです。『旧約聖書』では、悪徳に支配され、神から滅ぼされたソドムの街から逃げだす途中で妻を亡くし、洞窟で実の娘たちと暮らすロトという男性の逸話が紹介されています。
 父との「関係」をリードしたのは娘たちで、「このままだと子どももないままで人生が終わるから、お父さんから子種をもらいましょう」と、寝ている父親にのしかかっていったそうで、「ロトの娘たち」という驚くべき逸話はタブーどころか、絵画の人気テーマの一つでさえありました。
 16世紀末には、フランチェスコ・チェンチというイタリア・ローマ近郊に城を構えた名門貴族が、実の娘のベアトリーチェを手籠めにした末、彼女の手で殺されたという悲惨な記録があります。
 ベアトリーチェは父親の罪を社会に告発しましたが、チェンチ家は社会的地位が高く、かつてのキリスト教社会にも、儒教的道徳を重んじた日本同様に「子どもは父親のもの」という社会的通念があったので、ベアトリーチェに味方してくれる司法関係者などは皆無でした。
 68年の「栃木実父殺し事件」同様、周囲の誰もが父親が娘にしていることを知っているのに、具体的な手助けはせず、無視しつづけた末にベアトリーチェは父親の殺害に踏み出さざるをえなくなったのです。
 大きな違いといえば、「栃木実父殺し事件」では被害者の女性に最高裁で懲役2年6月、執行猶予3年の刑――つまり執行猶予付きの判決が出たのに対し、ベアトリーチェは処刑されたということでしょうか。
 身分や貧困、もしくは信仰など理由はさまざまですが、一般社会から孤立した家庭こそ密室化しやすく、専制君主となった父親や兄たちの手で家族の女性が性被害に遭うという悪夢のような現実は現在でも続いています。
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