東京大学不合格となった皇族の「執念」とは? 学習院からスルッと進学の時代も

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 「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 
目次
東京大学に学習院出身者がスルッと進学できたワケ
学習院高等科、昭和5年の東大合格率は?
東京大学を不合格となった皇族の「御執念」とは?
京都大学進学を渋った理由
東京大学に学習院出身者がスルッと進学できたワケ
――筑波大学への進学が決まった秋篠宮家の悠仁親王。かつては東大が第一希望だとうわさされ、当時から「全てに恵まれた皇族が、私たち庶民の進学のライバルにもなってくる」と世間の反応はよくはありませんでした。前回から、悠仁親王以前に「東大を目指した宮さま」のお話を歴史エッセイストの堀江さんにうかがっています。
堀江 近代史の中で「東大を目指した宮さま」は実は何人かいらっしゃるのですが、今回はその中でももっともニュースになってしまった方――戦前日本で、世襲親王家のひとつと数えられていた久邇宮家の邦彦王の第3皇子・邦英王のお話のつづきをさせていただきます。
 明治10年(1877年)、皇族・華族など超特権階級のための学校として設立された東京・学習院ですが、明治27年(94年)、優秀な成績で学習院高等科を卒業した者に限って、学習院院長の推薦を受け、「帝国大学」の「法科大学(のちの東大法学部)」あるいは「文科大学(のちの東大文学部)」への進学が可能となったのです。ちなみにこの当時、帝大といえば東京帝国大学しか存在しませんでした。
 そして学習院高等科出身の志賀直哉や武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)、里見弴(さとみ・とん)など後年、「白樺派」の文豪と呼ばれる面々が、高等科時代にはあまり真面目に勉強していなかったとされるにもかかわらず、帝大文学部にスルッと進学できたのです。彼らは一様に勉学を放棄し、中退していますが、それも同じ理屈でしょう。
――まさに特権階級!
堀江 しかしさすがに早くも明治33年(1990年)からは、規則が大幅に学習院高等科卒業生に厳しいものに変更となりました。「帝大への無試験推薦入学が可能なのは、東京と京都の帝大の定員に空きがある場合だけ」ということになってしまったのですね。
 しかもこの当時、学習院高等科卒業生が「一般入試で帝大(東大)を目指す」ことは不可能でした。その他の名門高等学校にくらべ、学習院高等科では第二外国語などの授業時間が足りておらず、それを理由に学習院高等科卒業生には帝大の受験資格がt得られなかったのです。
昭和5年、学習院高等科の東大合格率は?
――ええー。定員の穴埋めには利用されるのに、受験だと試験を受けることすら無理という理不尽……。
堀江 いいように使われていますよね。それでも「帝大(東大)に進学したい!」という学習院高等科の生徒たちの希望が叶えられるようになったのは、大正10年(1921年)の文部省(当時)による決定があったからです。
 しかし、昭和5年(30年)になっても東京帝大を受験した学習院高等科の生徒の合格率は56%。東大はその頃から「身分」などまったく考慮しない学校だったわけですね。そして学習院高等科の56%の帝大合格率は、全国の高等学校全35校のうち19位でした。「中堅校」といったところでしょうか……。
――日本全国で35校しか高等学校がなかったというのも驚きですね。
堀江 戦前日本で大学進学するには、実家の経済力、本人の高い学力、そして強い意思の3つが合致しないとダメだったのですね。ここで最初にお話した久邇宮家出身の邦英王にご登場願おうと思います。
東京大学を不合格となった皇族の「御執念」とは?
堀江 邦英王が念願の帝大法学部を受験なさったのが、昭和6年(31年)の春でした。昨年前期のNHK朝ドラ『虎に翼』で、小林薫さんが演じていた穂高重親のモデル、穂積重遠(ほづみ・しげとお)が、受験室まで邦英王――正式な身分は「臣籍降下」の後なので東伏見伯爵なのですが、彼を先導した穂積はわざわざ礼服をまとって応対してくれたそうですよ。しかし、結果は不合格。
――ひえー。さすがの帝大、空気読まないですね!
堀江 このときのトラブルを戦前の宮中の実力者であった牧野伸顕が日記に記しており、そこから浮かび上がるのは、不合格となった邦英王は一時期、帝大がダメだったから、「京都大」への入学を受諾したのだけれど、「やはり私は帝大法学部に行きたい、ほかの学生たちのように浪人したい」と言いだしたようなのです。
 しかし、「東伏見伯(=邦英王)が京都大学の方を断はると云ひ出され」たことは、周囲の大困惑をまねきました(『牧野伸顕日記』、昭和6年4月29日)。
――仮面浪人という概念もこのころはなかったのですね。
堀江 はい。結果的に、多くの皇族がたが「このまま京都大に進学しなさい」と邦英王の説得を試みたものの、「御本人の御態度余程御執念の後様子にて」――つまり邦英王は激しい抵抗を見せたそうです。結局、昭和天皇が邦英王を呼びつけ、「直接伯(=邦英王)へ御懇諭」なさる事態となりました。それで、邦英王はようやく京都大入学を受け入れたというのです(中央公論新社『牧野伸顕日記』、昭和6年5月4日)。
――そこまで当時の京大にブランド力がなかったのでしょうか。それにしても戦前は、天皇陛下が皇族がたのプライベートにも「鶴の一声」をお持ちだったのですね。「臣籍降下」したとはいえ、実質的に皇族として扱われている方が、京都大へ進学しても、世間が何もいわなかったというのは驚きです……。
堀江 「臣籍降下」云々の前に、傍系の皇族である邦英王と、次代の天皇であると考えられている悠仁親王とではお立場が違うにせよ、「進学の自由」はへたすると現在より、戦前のほうがあったのかもしれないというのは興味深いですね。
 あと、進学のために浪人することは皇族(とそれに類する存在)には「望ましくない」とする考えはおそらく今でも根強いことも指摘できると思います……。
 邦英王については、いったん京大に進学すると明言した後の翻意で、それが実質的な皇族としては問題だと皇室内でみなされた一面もあると思います。
京都大学進学を渋った理由
――秋篠宮家が、一般入試よりも確実性が高いであろう推薦入試にこだわり続けた理由とも重なるようで面白いです。
堀江 邦英王が京大進学を渋ったのも、希望していた法学科ではなく(おそらく京大の法学科も人気で席が埋まってしまっていたと思われる)、文学部史学科への進学だったこともあるでしょうね。
 ただ、趣味人として知られる邦英王は、京大在学中にピアニストとして活動開始、ヨーゼフ・ハイドンの『ピアノ協奏曲 ニ長調』を公爵家出身の音楽家・近衛文麿の指揮でレコードに録音するなどしておられますし、卒業後には京大史学科の教壇にも立たれています。それこそ警護の問題など、どうだったのか……と現代人としては考えてしまうのですが、とくに問題にもならなかったようですね。
 皇族の方々は生まれ持っての「適応力」が素晴らしいので、悠仁親王もきっと筑波大に溶け込んでいかれるのではないかな、と想像してしまいます。
――親王の進学問題に肯定的なメディアがほとんど見当たらなかったのは残念です。
堀江 われわれが悠仁親王の御身を心配するのは「勝手」なのですが、それが親王殿下の心身の健やかなご成長のさまたげとなってしまわぬよう、私としては祈るばかりです。
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