明治天皇の側室として子を出産した、有名な女官・柳原愛子とは?

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「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!  
目次
「女官」と「女嬬」の違いは?
天皇の下半身を女官が洗う風習も
上級の女官・柳原愛子は明治天皇の側室として有名
「女官」と「女嬬」の違いは?
――前回のお話で、戦後の女官改革についてはよくわかりました。戦後、女官は特別職の公務員となり、既婚女性もしくは未亡人といった中年女性の採用が中心となったという話でしたが、戦前はどのような形で女官制度は運用されていたのでしょうか?
堀江宏樹氏(以下、堀江) 江戸時代の江戸城・大奥と女中たちについては語られることが多いのですが、宮中の女官の実態については関係者の口が固く、ほとんど知られていないことばかりなのですよね。
 ただ、戦後すぐの昭和天皇による女官制度改革によって、さまざまな呼称自体が一変しました。公務に同行したり、家庭生活や子育てなどにも「準家族」的な役割で参画する――つまり皇族の最側近的な役割を期待される上級女官は一括で「女官」と呼ばれるように。
 一方、いわゆるメイド的な役割の女官は、「女嬬」といわれることになりました。いずれにせよ、古代日本で中国にならって導入された、律令制度の時代から使われている名称を引き続き利用したのは、興味深いですね。
 しかし、令和になったことを契機に、秋篠宮家では「女官」という役職名を廃止し、男女ともに「宮務官」と呼ぶようになったそうですが、こちらについては前回にお話しましたので、今回は省きます。
天皇の下半身を女官が洗う風習も
――戦前まではどんな女官がいたのですか?
堀江 「女官」と書いて「にょかん」と読むのが上級女官で、「じょうかん」と読むのが下級女官だったというのはマメ知識ですね。戦後まで、いわゆる上級女官の人数がどのくらいいたのかですが、意外に少なく、多くても数十名規模での存在だったようです。
 明治初期でいうと、現在の宮内庁では侍従に相当し、主に天皇にお仕えした「典侍(てんじ)」が3名。「典侍」は古い時代では「ないしのすけ」とも古くは読みました。そのアシスタントにあたる「権典侍(ごんてんじ)」は4名。
 そして主に皇后にお仕えした「掌侍(しょうじ)」は1名で、そのアシスタントにあたる「権掌侍(ごんしょうじ)」は4名でした。
 さらに「命婦(みょうぶ)」という女官は3名、命婦のアシスタントにあたる「権命婦(ごんみょうぶ)」が4名いて、その他としては教育関係などを担当する女性が6名ほど。かなりの少数精鋭だったことがわかります。ちなみに当時、皇太子こと東宮専任の女官は2名でした。
――「掌侍」ってはじめて聞きました。皇后・雅子さまの長年の側近として女官職にあった岡山いちさんのような方に相当する役職でしょうか?
堀江 そうですね。「典侍」や「掌侍」といえば、天皇・皇后両陛下の近くでお仕えするだけでなく、お着替えや入浴まで手伝ったりする役職でした。ちなみに昭和天皇の時代に、女官が天皇の入浴を手伝うという風習は廃止されていますね。それまでは、高い身分の女官が天皇のお背中を流し、低い身分の女官が下半身を洗う……というような「介助」があったのです。
――すごい身分制ですね!
堀江 そして掃除を担当するのが、典侍や掌侍よりも身分が低い「命婦」、「権命婦」なのです。それでも、ここまでが天皇皇后両陛下のお側でご奉仕できる、いわゆる上級女官といえます。
上級の女官・柳原愛子は明治天皇の側室として有名
――かつて天皇皇后両陛下は、身の回りの清掃なども公家出身の女官にさせていたのですね。
堀江 それだけ厳密な身分社会ということですね。とくに上級の女官には天皇の「側室」としての役割も期待されていましたが、天皇が手を出してもよいのは「典侍」か「権典侍」だけ。しかし、それも厳密には(子どもが生まれないなどの理由で)皇后の承認あっての話で、それ以外の女性と天皇が親しくなろうものなら、皇后は激怒したという記録というか「うわさ」もあります。
――女官の数も少ないからこそ、人間関係は濃密だったようですね。
堀江 明治7年、当時23歳だった明治天皇が、2歳歳上の美子皇后との間にお子さまが生まれないことを理由に柳原愛子(やなぎわら・なるこ)という典侍を、皇后の承認をもとに「側室」としていたのは有名な事実です。
 しかし、柳原典侍が明治天皇の第二皇女・梅宮を妊娠中だったこの時、明治天皇がとある「侍女」と深い仲になったので、美子皇后が激怒し、天皇と皇后の間を、あの岩倉具視が行き来して、なんとか問題を収めたという「うわさ」もあります。
 美子皇后は天皇が側室を持つことを容認していましたが、それは、それなりの家格の公家の姫たちである「典侍」「権典侍」といった女官に限るという姿勢を崩さなかったのですね。
――天皇家の夫婦げんかのお話って、はじめて聞いたかもしれません。
堀江 この時は仲直りできて、そのお祝いとして、天皇皇后で酒宴を催したそうですよ。ちなみに美子皇后のあだ名は「天狗さん」で、明治天皇はあだ名を付けるのがお好きだったのですが、これも美子皇后が「高くて美しい鼻筋をお持ちだったから」……などと穏便に語られています。
 しかし本当はそれだけでなく、「怒ったらすごく怖いから」という天皇の底意が感じられなくもありません。ちなみにこれ以降、美子皇后は高倉寿子(たかくら・ひさこ)という典侍職の女官の協力を得て、明治天皇が自分の意に沿わぬ相手に手出ししないかを監視させつづけていたそうです。
 世間では「現人神」としてあがめられていても、宮中ではなかなか肩身の狭い生活を戦前の天皇はなさっていたのかもしれませんね。
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