朝ドラ『ブギウギ』が描かなかった、男の犠牲になったヒロインと娘の史実
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ついに最終話を迎えたNHKの朝のテレビ小説『ブギウギ』。中でも視聴者の涙をさらったヒロインと愛助(モデルは吉本興業のゴッドマザー・吉本せいの次男である吉本エイスケ)の悲恋について、歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が史実の面から解説する。
目次
・エイスケの犠牲になった笠置とエイ子
・一番の問題は優柔不断なボンボンのエイスケ
・笠置の覚悟を尊重した、吉本せい
エイスケの犠牲になった笠置とエイ子
ドラマでの愛助(水上恒司)は、再発した肺結核が重症なので、関西の療養所に入るための帰阪でしたが、笠置の自伝では、エイスケの母で、当時の吉本興業のトップだった吉本せいが重病だったので、その看病のためにエイスケを帰阪させたと描かれていることは、すでに前回までのコラムで触れました。
また、笠置が自分の妊娠に気づいたのは、エイスケと生き別れになってから最低でも数カ月は後のことだったようですね(エイ子の生まれた日と、笠置が主張する最後にあった時が微妙に合わないという「疑惑」については前回、考察したので、今回は省きます)。
もちろん、笠置はエイスケには事実を伝えていました。しかし、エイスケが大阪に帰ってから亡くなるまでの約1年の間、いくら当時の吉本興業に課されていた財産税の対策をせねばならなかったにせよ、エイスケの母親で、吉本家の家長である吉本せいに、笠置や二人の間に生まれる子どもの話をまったくしないままで亡くなったという事実には驚かされてしまいます。エイ子の誕生にまつわる「疑惑」と関係しているのかも……という好奇心をつのらせてしまいますが、ここは笠置の自伝の主張を信じましょう。
笠置がエイスケの死を知ったのは、彼が亡くなった昭和22年(1947年)5月19日の翌日、つまり20日の昼頃でした。この時、笠置は、母親にエイスケが何も言わずに死んだという話を林弘高常務(当時)から聞かされたそうです。そして、そんなエイスケが「立派だった」と……。
これはどう評価すべき逸話なのでしょうか。笠置との身分違いの結婚、そして彼女が妊娠中だと伝えると、闘病中の母親にショックを与えることを心優しいエイスケは危惧していたのかもしれません。しかし、そういうエイスケの親孝行の犠牲になったのが、笠置とエイ子だったともいえるのです。
一番の問題は優柔不断なボンボンのエイスケ
笠置とエイスケは正式に結婚できておらず、エイスケが亡くなる前にエイ子は生まれなかったので、彼から認知を受けることもできませんでしたが、それは当時の世の中ではかなりのダメージでした。
ドラマでは、愛助の母・村山トミ(小雪さん)は、頑迷なまでに理想の家族像にこだわり、歌手を続ける限り、絶対にスズ子との結婚には認めないという立場を貫き、ドラマでは「悪役」だったように思われます。
しかし、笠置の自伝を読む限り、一番の問題はむしろ優柔不断なボンボンのエイスケで、彼のせいでしなくてもいいような思いまで笠置がさせられてしまったことが行間から読み取れるのですね。
エイスケが病気がちな高齢の母親に、笠置との結婚などについて直談判しづらかったのはわかりますが、少なくとも母親にカミングアウトだけでもしていればよかったのではないか……と思ってしまいます。史実の吉本せいは、ドラマの村山トミ以上に器が大きい女性だったようですから。
笠置の覚悟を尊重した、吉本せい
笠置の自伝によると、吉本せいが、エイスケの忘れ形見の娘・エイ子の存在を把握できたのは息子の死後だったようです。吉本せいは自分の体調が良くなると、すぐに東京まで笠置とエイ子を訪ねてきました。
当時、笠置は世田谷・松陰神社前の一軒家に住んでいましたが、これは笠置との結婚を母親に認めてさせると言っていたエイスケの言葉を信じ、彼との新婚生活のために、笠置が銀行から金を借りて購入した大切な家でした。
吉本せいは、初対面の笠置に対し「エイスケがえろう、お世話になりまして……」と「丁寧に」頭を下げました。彼女の「度量もあり、情けもあり、行き届いたお人柄」に笠置は感じ入ったそうです。
ドラマでは、トミからスズ子に「生まれた子を村山家の養子にしたい」という直球の申し出がありましたが、史実では、笠置がエイ子を育てながらステージに立つのは大変だろうという理由で、さりげなく「わてが預かってもあげてもよろしいがな」とほのめかす程度だったようですね。
その後、笠置はエイ子を自分の戸籍にいれて「亀井エイ子」にしましたが、それも吉本せいは黙認したので、シングルマザーとしてエイ子を自力で育てたいという笠置の「覚悟」を尊重したことがわかります。
あるいはいくらエイスケが肺結核に苦しんでいたとはいえ、笠置とエイ子のことで、彼の対応に不十分な部分があったことは事実なので、吉本せいとしても、エイ子を吉本家の戸籍にいれることまでは強くは望めなかったという部分もあるかもしれませんね。
『ブギウギ』がなければ、筆者が笠置シズ子の自伝『歌う自画像』を読むことはなかった気がしますが、戦中・戦後の日本で、女性が自由に生きることの難しさが語られた貴重な書物だと感じました。
目次
・エイスケの犠牲になった笠置とエイ子
・一番の問題は優柔不断なボンボンのエイスケ
・笠置の覚悟を尊重した、吉本せい
エイスケの犠牲になった笠置とエイ子
ドラマでの愛助(水上恒司)は、再発した肺結核が重症なので、関西の療養所に入るための帰阪でしたが、笠置の自伝では、エイスケの母で、当時の吉本興業のトップだった吉本せいが重病だったので、その看病のためにエイスケを帰阪させたと描かれていることは、すでに前回までのコラムで触れました。
また、笠置が自分の妊娠に気づいたのは、エイスケと生き別れになってから最低でも数カ月は後のことだったようですね(エイ子の生まれた日と、笠置が主張する最後にあった時が微妙に合わないという「疑惑」については前回、考察したので、今回は省きます)。
もちろん、笠置はエイスケには事実を伝えていました。しかし、エイスケが大阪に帰ってから亡くなるまでの約1年の間、いくら当時の吉本興業に課されていた財産税の対策をせねばならなかったにせよ、エイスケの母親で、吉本家の家長である吉本せいに、笠置や二人の間に生まれる子どもの話をまったくしないままで亡くなったという事実には驚かされてしまいます。エイ子の誕生にまつわる「疑惑」と関係しているのかも……という好奇心をつのらせてしまいますが、ここは笠置の自伝の主張を信じましょう。
笠置がエイスケの死を知ったのは、彼が亡くなった昭和22年(1947年)5月19日の翌日、つまり20日の昼頃でした。この時、笠置は、母親にエイスケが何も言わずに死んだという話を林弘高常務(当時)から聞かされたそうです。そして、そんなエイスケが「立派だった」と……。
これはどう評価すべき逸話なのでしょうか。笠置との身分違いの結婚、そして彼女が妊娠中だと伝えると、闘病中の母親にショックを与えることを心優しいエイスケは危惧していたのかもしれません。しかし、そういうエイスケの親孝行の犠牲になったのが、笠置とエイ子だったともいえるのです。
一番の問題は優柔不断なボンボンのエイスケ
笠置とエイスケは正式に結婚できておらず、エイスケが亡くなる前にエイ子は生まれなかったので、彼から認知を受けることもできませんでしたが、それは当時の世の中ではかなりのダメージでした。
ドラマでは、愛助の母・村山トミ(小雪さん)は、頑迷なまでに理想の家族像にこだわり、歌手を続ける限り、絶対にスズ子との結婚には認めないという立場を貫き、ドラマでは「悪役」だったように思われます。
しかし、笠置の自伝を読む限り、一番の問題はむしろ優柔不断なボンボンのエイスケで、彼のせいでしなくてもいいような思いまで笠置がさせられてしまったことが行間から読み取れるのですね。
エイスケが病気がちな高齢の母親に、笠置との結婚などについて直談判しづらかったのはわかりますが、少なくとも母親にカミングアウトだけでもしていればよかったのではないか……と思ってしまいます。史実の吉本せいは、ドラマの村山トミ以上に器が大きい女性だったようですから。
笠置の覚悟を尊重した、吉本せい
笠置の自伝によると、吉本せいが、エイスケの忘れ形見の娘・エイ子の存在を把握できたのは息子の死後だったようです。吉本せいは自分の体調が良くなると、すぐに東京まで笠置とエイ子を訪ねてきました。
当時、笠置は世田谷・松陰神社前の一軒家に住んでいましたが、これは笠置との結婚を母親に認めてさせると言っていたエイスケの言葉を信じ、彼との新婚生活のために、笠置が銀行から金を借りて購入した大切な家でした。
吉本せいは、初対面の笠置に対し「エイスケがえろう、お世話になりまして……」と「丁寧に」頭を下げました。彼女の「度量もあり、情けもあり、行き届いたお人柄」に笠置は感じ入ったそうです。
ドラマでは、トミからスズ子に「生まれた子を村山家の養子にしたい」という直球の申し出がありましたが、史実では、笠置がエイ子を育てながらステージに立つのは大変だろうという理由で、さりげなく「わてが預かってもあげてもよろしいがな」とほのめかす程度だったようですね。
その後、笠置はエイ子を自分の戸籍にいれて「亀井エイ子」にしましたが、それも吉本せいは黙認したので、シングルマザーとしてエイ子を自力で育てたいという笠置の「覚悟」を尊重したことがわかります。
あるいはいくらエイスケが肺結核に苦しんでいたとはいえ、笠置とエイ子のことで、彼の対応に不十分な部分があったことは事実なので、吉本せいとしても、エイ子を吉本家の戸籍にいれることまでは強くは望めなかったという部分もあるかもしれませんね。
『ブギウギ』がなければ、筆者が笠置シズ子の自伝『歌う自画像』を読むことはなかった気がしますが、戦中・戦後の日本で、女性が自由に生きることの難しさが語られた貴重な書物だと感じました。