21歳が結婚適齢期――皇女の「伝統」打ち破った紀宮さま(黒田清子さん)、マスコミの驚くべき報道とは?
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「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 全7回にわたって上皇陛下の長女で天皇陛下の妹である黒田清子さんをめぐるお話をお聞きします。
――平成17年(2005年)11月に紀宮さま(現・黒田清子さん)が東京都職員の黒田慶樹さんとご結婚なさってから、もう19年になるのですね。
堀江宏樹氏(以下、堀江) 帝国ホテルでのお二人の結婚式に、紀宮さまにとってはご両親である天皇皇后両陛下(当時、現・上皇さまご夫妻)がご参列というのも、歴史的には珍しいことだと報道されていたのをよく覚えています。そもそも女性皇族が結婚できるようになったのは、明治時代にはじまった「新しい皇室の伝統」のひとつで、それ以前の時代では、結婚できる方のほうがわずかだったのですね。
――江戸時代では、御本人が望んでも結婚ができなかったのですか?
堀江 女性皇族が結婚できるかどうかは、その方のお父様、お兄様のご意思次第ですね。生まれた時にはほぼ決定しており、無理となれば、格式ある寺院のご門跡(代表者)となって、人間の夫ではなく、仏さまにお仕えする人生になるわけです。
――そんな……絶句ものです。
堀江 男性皇族も似たようなものですよ。結婚できるかどうかは運でした。高貴さは、数の少なさ、つまり希少性と大きく関係しています。ダイアモンドがその辺に落ちている世界があったところで、そこでも高い価値が付くと思いますか? 皇族もある意味、同じです。とくに明治時代以前は、皇族の数が意図的に限定されてきたのです。
女性皇族は明治時代以降、ふつうに結婚するようになりましたが、女性皇族の結婚自体がニュースになるだけでなく、メディアの花形コンテンツにもなったのは、昭和20年~30年代にかけての昭和天皇の3人の皇女がたのご結婚がきっかけでした。つまり、これもまた「新しい皇室の伝統」であるというのは、前回まででお話ししたとおりです。
しかし、古い雑誌記事をまとめ読みすると、紀宮さまほど、皇室の歴史で「はじめて」づくしの人生を歩まれた方は少ない気があらためてしてくるのですね。
――平成2年(1990年)3月、20歳を迎えられた紀宮さまは、これまで「内親王の成年のお祝いは内輪だけで済ませる」という皇室のしきたりにとらわれず、報道陣に「感想」という形でコメントをお出しになりました。
堀江 「20年の間、おいつくしみいただき、たくさんのことをお教えいただいた天皇・皇后両陛下をはじめ、大勢の方々に感謝申し上げております」という紀宮さまのお言葉からは、最近の20歳には絶対に見られない品位や、奥ゆかしさが感じられますね。
しかし、この記事にもあるように、それ以降の紀宮さまの記事のすべてに「結婚」の二文字が書かれるようになってしまうのです。
――この当時、宮さまはまだ学習院大学国文学科(現・日本語日本文学学科)の学生さんですよね? ちょっと早すぎるような気もしますが……。
堀江 これが1990年という時代だったのでしょう。つい最近ですが、本当に古色蒼然とした印象ですよね。上流階級の成年=婚約であってもおかしくはないという、現代から見れば、相当に古い伝統がいまだに現役であったのだと思います。
「突如急浮上してきた紀宮さまの嫁ぎ先!(光文社「女性自身」1990年4月10日号)」という記事でも、この年の4月に21歳をお迎えになった紀宮さまが、ついに「結婚適齢期」をお迎えになられたという認識のようです。
紀宮さまは、結婚や進学で伝統を打ち破ってきた
――本当にずいぶんと感覚が違うのですね。
堀江 昭和天皇の4人の皇女がたがご成婚となった年齢を見ると、0歳で夭折なさった久宮さまをのぞき、第一皇女の照宮さま(後の東久邇成子さん)が17歳、第三皇女の孝宮さま(後の鷹司和子さん)が20歳、第四皇女の順宮(後の池田厚子さん)と第五皇女の清宮(後の島津貴子さん)がそれぞれ21歳というデータがあります。ですから、21歳の紀宮さまもそろそろ……という報道は、そうした皇室における「先例」を意識したものなのでしょう。
しかし、昭和天皇の4人の皇女がたは、 紀宮さまのように学習院大学に4年間、 卒業するまでお通いになったわけではありません。一方、当時の紀宮さまは学習院大学文学部国文科3年にご在学中です。この点も、女性皇族は高校ですら学業を修める前に結婚することが多かった明治以降の伝統を打ち破っておられたのですね。
――例の「突如急浮上してきた紀宮さまの嫁ぎ先!(「女性自身」1990年4月10日号)」という記事ですが、紀宮さまが36歳で結婚なさった黒田慶樹さんのお名前が早くも登場しているのに驚きました。逆にいうと、その後、平成16年(2004年)までの約14年間、数多く登場した有力候補の男性について、週刊誌はすべて外してきた事実にも驚きを隠せないのですが……。
堀江 あらためて週刊誌の皇室報道のどの程度が真実なのか、つまり“嘘が多すぎる”と秋篠宮さまも苦言を呈しておられましたけど、首をひねるような結果ですね。
黒田慶樹さんですが、報道時はまだ東京都職員ではなく、前職の三井銀行勤務のサラリーマンとしてお名前が上がっています。黒田さんは礼宮さま(現・秋篠宮さま)の学習院初等科時代からご学友であったと、匿名の「旧華族夫人」のコメントが紹介されているのですが、「しかし、それ以上に有力な人がいる」だと本命視されていたのが、西武グループ総裁一族の堤正利さん(当時19歳)。
同時期の「週刊女性」(1990年5月8・15日合併号、主婦と生活社)でも堤さんは「急浮上した花ムコ候補」といわれ、男性アイドルっぽいポーズで微笑む顔写真が掲載されていますね。
紀宮さまの結婚相手として最有力候補だったのは?
――これにも時代を感じてしまいます。堤さんは紀宮さまより1~2歳年下でしょうか?
堀江 記事では皇室の「プリンセス」が、民間の男性に嫁ぐ場合、夫が年下なのはすでに先例がたくさんあるから大丈夫! と書かれてあります。堤さんと紀宮さまに結婚してもらいたいのかな……と思いきや、批判も忘れてはいません。「西武というのはあれだけ大きくハデな存在」であるがゆえに、「天皇家の家風」とは合わないとも。
――皇女である紀宮さまの「望ましい嫁ぎ先は学者の家庭」だと考える人も多かったようです。
堀江 学者といえば、青春時代の美智子さまが「かつては学者との結婚を夢見ていた」と仰っていたのと、美智子さまがご結婚なさった天皇陛下(当時)が生物学の研究者でもあられることを考えると、お二人のご息女であられる紀宮さまの嫁ぎ先も、学者だろうという連想でしょうか。
――しかし、学者で、「天皇家の家風」に合うような、高い身分を備えた人物をマスコミは候補者として発掘してしまいました。93年ごろから、紀宮さまの結婚相手として最有力候補と言われ、マスコミから追われる日々をお過ごしになられた旧華族出身者にして、東大からフランスの大学にも留学したエリート建築家・坊城俊成(ぼうじょう・としなる)さんです。
次回に続きます。
――平成17年(2005年)11月に紀宮さま(現・黒田清子さん)が東京都職員の黒田慶樹さんとご結婚なさってから、もう19年になるのですね。
堀江宏樹氏(以下、堀江) 帝国ホテルでのお二人の結婚式に、紀宮さまにとってはご両親である天皇皇后両陛下(当時、現・上皇さまご夫妻)がご参列というのも、歴史的には珍しいことだと報道されていたのをよく覚えています。そもそも女性皇族が結婚できるようになったのは、明治時代にはじまった「新しい皇室の伝統」のひとつで、それ以前の時代では、結婚できる方のほうがわずかだったのですね。
――江戸時代では、御本人が望んでも結婚ができなかったのですか?
堀江 女性皇族が結婚できるかどうかは、その方のお父様、お兄様のご意思次第ですね。生まれた時にはほぼ決定しており、無理となれば、格式ある寺院のご門跡(代表者)となって、人間の夫ではなく、仏さまにお仕えする人生になるわけです。
――そんな……絶句ものです。
堀江 男性皇族も似たようなものですよ。結婚できるかどうかは運でした。高貴さは、数の少なさ、つまり希少性と大きく関係しています。ダイアモンドがその辺に落ちている世界があったところで、そこでも高い価値が付くと思いますか? 皇族もある意味、同じです。とくに明治時代以前は、皇族の数が意図的に限定されてきたのです。
女性皇族は明治時代以降、ふつうに結婚するようになりましたが、女性皇族の結婚自体がニュースになるだけでなく、メディアの花形コンテンツにもなったのは、昭和20年~30年代にかけての昭和天皇の3人の皇女がたのご結婚がきっかけでした。つまり、これもまた「新しい皇室の伝統」であるというのは、前回まででお話ししたとおりです。
しかし、古い雑誌記事をまとめ読みすると、紀宮さまほど、皇室の歴史で「はじめて」づくしの人生を歩まれた方は少ない気があらためてしてくるのですね。
――平成2年(1990年)3月、20歳を迎えられた紀宮さまは、これまで「内親王の成年のお祝いは内輪だけで済ませる」という皇室のしきたりにとらわれず、報道陣に「感想」という形でコメントをお出しになりました。
堀江 「20年の間、おいつくしみいただき、たくさんのことをお教えいただいた天皇・皇后両陛下をはじめ、大勢の方々に感謝申し上げております」という紀宮さまのお言葉からは、最近の20歳には絶対に見られない品位や、奥ゆかしさが感じられますね。
しかし、この記事にもあるように、それ以降の紀宮さまの記事のすべてに「結婚」の二文字が書かれるようになってしまうのです。
――この当時、宮さまはまだ学習院大学国文学科(現・日本語日本文学学科)の学生さんですよね? ちょっと早すぎるような気もしますが……。
堀江 これが1990年という時代だったのでしょう。つい最近ですが、本当に古色蒼然とした印象ですよね。上流階級の成年=婚約であってもおかしくはないという、現代から見れば、相当に古い伝統がいまだに現役であったのだと思います。
「突如急浮上してきた紀宮さまの嫁ぎ先!(光文社「女性自身」1990年4月10日号)」という記事でも、この年の4月に21歳をお迎えになった紀宮さまが、ついに「結婚適齢期」をお迎えになられたという認識のようです。
紀宮さまは、結婚や進学で伝統を打ち破ってきた
――本当にずいぶんと感覚が違うのですね。
堀江 昭和天皇の4人の皇女がたがご成婚となった年齢を見ると、0歳で夭折なさった久宮さまをのぞき、第一皇女の照宮さま(後の東久邇成子さん)が17歳、第三皇女の孝宮さま(後の鷹司和子さん)が20歳、第四皇女の順宮(後の池田厚子さん)と第五皇女の清宮(後の島津貴子さん)がそれぞれ21歳というデータがあります。ですから、21歳の紀宮さまもそろそろ……という報道は、そうした皇室における「先例」を意識したものなのでしょう。
しかし、昭和天皇の4人の皇女がたは、 紀宮さまのように学習院大学に4年間、 卒業するまでお通いになったわけではありません。一方、当時の紀宮さまは学習院大学文学部国文科3年にご在学中です。この点も、女性皇族は高校ですら学業を修める前に結婚することが多かった明治以降の伝統を打ち破っておられたのですね。
――例の「突如急浮上してきた紀宮さまの嫁ぎ先!(「女性自身」1990年4月10日号)」という記事ですが、紀宮さまが36歳で結婚なさった黒田慶樹さんのお名前が早くも登場しているのに驚きました。逆にいうと、その後、平成16年(2004年)までの約14年間、数多く登場した有力候補の男性について、週刊誌はすべて外してきた事実にも驚きを隠せないのですが……。
堀江 あらためて週刊誌の皇室報道のどの程度が真実なのか、つまり“嘘が多すぎる”と秋篠宮さまも苦言を呈しておられましたけど、首をひねるような結果ですね。
黒田慶樹さんですが、報道時はまだ東京都職員ではなく、前職の三井銀行勤務のサラリーマンとしてお名前が上がっています。黒田さんは礼宮さま(現・秋篠宮さま)の学習院初等科時代からご学友であったと、匿名の「旧華族夫人」のコメントが紹介されているのですが、「しかし、それ以上に有力な人がいる」だと本命視されていたのが、西武グループ総裁一族の堤正利さん(当時19歳)。
同時期の「週刊女性」(1990年5月8・15日合併号、主婦と生活社)でも堤さんは「急浮上した花ムコ候補」といわれ、男性アイドルっぽいポーズで微笑む顔写真が掲載されていますね。
紀宮さまの結婚相手として最有力候補だったのは?
――これにも時代を感じてしまいます。堤さんは紀宮さまより1~2歳年下でしょうか?
堀江 記事では皇室の「プリンセス」が、民間の男性に嫁ぐ場合、夫が年下なのはすでに先例がたくさんあるから大丈夫! と書かれてあります。堤さんと紀宮さまに結婚してもらいたいのかな……と思いきや、批判も忘れてはいません。「西武というのはあれだけ大きくハデな存在」であるがゆえに、「天皇家の家風」とは合わないとも。
――皇女である紀宮さまの「望ましい嫁ぎ先は学者の家庭」だと考える人も多かったようです。
堀江 学者といえば、青春時代の美智子さまが「かつては学者との結婚を夢見ていた」と仰っていたのと、美智子さまがご結婚なさった天皇陛下(当時)が生物学の研究者でもあられることを考えると、お二人のご息女であられる紀宮さまの嫁ぎ先も、学者だろうという連想でしょうか。
――しかし、学者で、「天皇家の家風」に合うような、高い身分を備えた人物をマスコミは候補者として発掘してしまいました。93年ごろから、紀宮さまの結婚相手として最有力候補と言われ、マスコミから追われる日々をお過ごしになられた旧華族出身者にして、東大からフランスの大学にも留学したエリート建築家・坊城俊成(ぼうじょう・としなる)さんです。
次回に続きます。